2013年03月20日

産業史から見た大阪の実力

3月17日に小学校の同窓会があり、その後個別にお会いした人もあり、身辺などを語りあったが、話が三洋電機に及んだこともあり、急に思いたったのが三洋電機。
大阪を語るうえで、産業史は無視できない。

大阪は庶民だけが群がる、しょーもない都市かどうか分かれ目と考えることもできる。
大阪の産業というと、家電3社が勃興し、戦後、高度経済成長の波に乗って、もっとも注目される産業となった。
かつては東洋のマンチェスターと言われ、大大阪を豪語した時代は綿紡を中心に集積していた。重要なのは工場ではなく本社や意思決定機関がどこにあるのか。工場はどこにでも出来るからである。
今回は井植歳男、三洋電機創業者を取り上げます。
(いうえ としお、1902年12月28日 - 1969年7月16日)

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三洋電機創業者 井植歳男

さて、ご存知のように大阪の家電3社は、松下電器、三洋電機、シャープの時代が長く続いた。松下幸之助という偉人の存在が大きかったが、人間の寿命は永遠ではない。
偉い創業家がなくなると、経営が揺らぐことも多い。
この数年のうちにも大きく変化した。三洋電機はパナソニックに統合されてしまった。
シャープは異色の歴史を秘めた企業であるが、三洋電機は戦後創業ながら、時流に乗って一気に大手電機の一角に食い込んだ企業だった。時代は昭和30年代、高度経済成長が始まろうとする初頭のころであった。

三洋電機の創業者、井植歳男という人物は、松下幸之助の精神を受け継いだような人物だったことが大きい。
松下電気器具製作所が、まだ町工場だった時代、井植歳男は松下幸之助と二人で工場を切り盛りしていた。井植敏男はまだ子供だったが、松下幸之助の妻のむめのの弟、義弟だった。幸之助は、勤めていた大阪電灯をやめて大阪で事業を始めていた。幸之助から誘われた歳男は、大正6年6月、大阪にでてきた。
翌年の大正7年3月、松下幸之助は念願の電気器具製造・販売に本格的に着手するため、大阪の大開町で「松下電気器具製作所」を創業した。歳男は改めて正式に入所した。

しかし終戦後の1946年(昭和21年)松下電器の専務の立場にあった井植は突如退社し翌年に三洋電機を創業することになる。
松下電器は占領軍総司令部(GHQ)が公布した財閥・軍需会社の公職追放指定を受け、幹部は全員が追放されるという一大事となった。しばらくして、経営者のうち一人は残ってもよいというGHQの意向が伝えられ、歳男は、いさぎよく身を引くことを決意した。
幸之助に「大将は残ってください。松下電器は大将あっての会社です」
1946年(昭和21年)12月、歳男は43歳だった。

なぜ突然、井植歳男は松下電器を辞めたのか日本経営史の大きな謎の一つであった。松下と急に不仲になったともGHQの公職追放指定に伴うものともいわれるがはっきりしたことは分からなかった。これはGHQの公職追放指定が真相だろうが、それぞれに側面があり、断片によっても異なる。
雑誌「経済界」の創業者、佐藤正忠(さとうせいちゅう)の著書「蘇る秘訣」(経済界)に井植の三洋電機創業の動機が記されていた。

佐藤正忠は井植歳男に息子のように可愛がられていた。ある時、井植歳男が「三洋電機が成功したのは、女性が原動力なんだよ」と言ったことがあったという。松下電器で専務として松下幸之助を補佐していた井植であったが、秘書として井植を助けていた女性に惚れてしまったのだ。
専務といっても当時の松下電器の給料では、二軒の家を維持することはできない。そこで「えいっ」と独立を決意したという。「ホンマ言うとな、女がいなかったら、三洋電機はできなかったよ・・・」と佐藤に語ったという。ところが、もう一人彼女が出来てしまい彼女にも家を与えることになる。それでは終わらず井植には5人の彼女が出来てしまい皆に家を与えることになる。
井植の凄いところは、彼女をつくるには女房を、経済的にもセックスの面でも不自由させてはいかん。だから大変だよ」といい。一旦付合った彼女は決して途中で切ったり捨てたりせずに最後まで面倒をみたことだ。
女性に対するのと同様、男に対しても誠実であった。井植歳男は女を幸せにするため必死に働き、その結果が三洋電機を大企業にまで育て上げたのである。

私は三洋電機が、パナソニックに統合されたのはあまりよろこんでいない。
できれば、三洋電機は三洋の道を歩んでほしいと思っていた。それは大阪の発展を望んでいたからである。大阪の繁栄には三洋とパナソニックは別々に存在した方が総合力は大きくなる。3本の矢は折れにくい例えと同じで、パナソニックと三洋電機自体の将来については知らない。

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三洋電機は2002年社外取締役、CE0最高責任者に野中ともよ ジャーナリストを採用したが、2年後業績が振るわず、あっさり辞任したこともあった。
検索したら、野中ともよ氏の肖像がたくさん出てきた。
三洋の社外取締役時代、当時はあまり感心しないと思っていたのだが、こうしてお顔を拝見したら、なんと、愛くるしいお顔だろう。

オトコは女が大好き、とりわけ美人には弱い。井植歳男が彼女を何人も作ったのもよく分かる。
そういや、私が最終に勤務した会社の専務は淡路島出身で、三洋電機に勤務したあと来られた経歴と聞いていた。淡路島出身に偉い人が多いのは偶然かもしれないが、環境が人物を育んだとしか言いようがない。


posted by まっち店長 at 17:38| 経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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